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2007年12月05日

八戸市の歴史【南部氏と八戸】




平成・南部藩ホームページ】より転載

○ 青森県八戸市と南部氏

 八戸の町の始まりは、1334年に南部師行( もろゆき) が陸奥の国司の北畠顕家( あきいえ) に従って甲州からやってきて、根城( ねじょう) に城を築いたときからです。
 一足早く糠部( ぬかのぶ) (今の青森県の東半分と岩手県北部)に来て三戸に城を築いたと伝えられる南部光行の子孫を「三戸南部氏」というのに対し、南部実長( さねなが) から始まり八戸に根城を築いた南部師行の子孫を「根城南部氏」と呼びます。三戸南部氏と根城南部氏の関係は、本家と分家の関係になります。
 南部氏の祖といわれる南部光行とその一族が奥州に下向するにあたり、出身地の甲州には、光行の三男の実長が残されました。その実長から数えて四代目の子孫が根城南部氏を築いた南部師行です。師行は、三戸南部氏四代政光の弟政行の子で、分家の根城南部氏へ婿養子となりました。また、師行には跡を継ぐ子がなかったので、自分の弟の政長を養子にしています。
 1333年、鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による「建武の新政( けんむのしんせい) 」が始まります。後醍醐天皇は奥羽地方を治めるため、天皇の代理として義良親王( のりよししんのう) (後の後村上天皇)とその補佐役として北畠顕家( あきいえ) を陸奥守に任じ、多賀城(宮城県)に国府を置きました。その国府へやってきた一行の中に南部師行がいました。奥羽地方は広大な国であったため、遠い地には国府の代官を置くことになり、南部師行が北奥羽地方の国代に任命され、八戸に根城を築きました。
 師行は、根城を拠点に北奥羽の各地の平定に尽くし、支配を命令されて勢力を及ぼした地域は、糠部一円のほか南は閉伊( へい) 、久慈( くじ) 、西は比内( ひない) 、北は外ヶ浜( そとがはま) 、津軽と北奥羽の広大な範囲でした。
 1335年、後醍醐天皇から鎌倉の足利尊氏( あしかがたかうじ) 追討を命じられた顕家は、師行に多賀国府の留守を守らせ、師行の孫の信政ら奥州軍を率いて遠征し、尊氏を九州に追いやりました。一方、根城では養子の政長が北奥羽の守りを固めていました。その後、勢いを盛り返した尊氏は、京都に上り光明天皇( こうみょうてんのう) をたてたので後醍醐天皇は吉野に移り、朝廷は二つに分裂し南北朝時代に入ります。顕家の2回目の遠征には師行が参加し、足利軍と激戦を展開し、これを打ち破りながら京都を目指すも、奈良の般若坂での戦いに敗れ、顕家と師行は堺(大阪府堺市)で戦死しました。
 師行が戦死した跡、政長が根城南部氏の五代目を継ぎ、糠部郡を支配しました。1338年に足利尊氏が征夷大将軍に任命され、多くの武将が足利方に投降し、政長へも降伏勧告状が届いています。しかし、政長は、これを無視したばかりか、津軽の足利方の曽我氏を抑え、一方では岩手の西根に出兵し要塞を構えました。
 1341年、足利尊氏の根城攻略と政長追討命令が相模国曽我師助( もろすけ) に下り、1342年根城は曽我勢に包囲されましたが、政長は陣頭に立って敵の本陣に切り込みこれを破りました。この政長の奮戦は、退潮を続ける南朝方の軍事行動の中で一段と際だったもので、後村上天皇は大変喜び、褒美として太刀と甲冑を政長に授けました。
 1350年、政長は、六代信政が政長よりも先に亡くなっていたため、根城を中心にした八戸を信政の長男信光に譲り、七戸を信光の弟が成人したなら半分を与えるように指示して信政の後家に譲り、亡くなりました。祖父政長の死により、根城南部氏七代目を継いだのは信光でしたが、奥州の南朝方の勢力が根城南部氏だけとなり、三戸南部氏と争うことになりかねないと考え、根城や領地を三戸南部に託して、1365年頃甲州の本領波木井( はきい) に引き上げました。
 南北両朝廷の統一後の1392年、三戸南部氏十三代守行の取り計らいにより、八代政光は、甲州の領地を捨て、南朝の天皇から賜った奥羽へ下向しました。根城にやってきた政光は、兄信光の子長経に九代目を継がせ、自分は隠居して七戸城に移り住みました。
 豊臣秀吉の小田原参陣の命令により三戸南部氏二十六代信直が参陣した際、十八代政栄( まさよし) は留守を守ります。このとき信直は、秀吉から朱印状を賜り所領を安堵されますが、それにより根城南部氏は三戸南部氏の家臣となりました。
 1627年、二十二代直義は、三戸南部氏二十七代利直から伊達領との藩境を固めるため、根城から遠野への国替えを命ぜられました。家臣の反対もありましたが、盛岡南部氏への反抗は幕府への反逆につながるとの清心尼( せいしんに) の説得もあり、根城南部氏は国替えに従いました。
 三戸南部氏二十八代重直が後継を決めないまま亡くなったため、南部家は断絶の危機を迎えますが、盛岡藩十万石を重直の二人の腹違いの弟に分け、兄の重信が八万石をついで盛岡藩を、弟の直房が残る二万石を継いで新たに八戸藩が誕生しました。
 八戸藩二代直政は、わずか八歳で藩主となり、江戸本所の火消役を幕府から命ぜられ、江戸に留まり勉学に励み学識豊かな青年大名に成長しました。すぐれた学才が五代将軍綱吉に認められ異例の出世をし、綱吉の側用人にまでなりました。

posted by 八戸在住 Cyber-Zoo | 青森 ☁ | 八戸市の歴史